Text - kiborio
以下は思考の過程としての断片的な記録です。
・髙瀬きぼりお絵画展へのコメント 2023.8
・世界の名画展 -抽象編-へのコメント 2022.10
・一次元絵画、ある単位、その他の断片 2022.06
・キカ・ギャラリーでの個展のコメント 2022.2
・2021 絵ってなんですか?
・2020 桃居の個展へのコメント
・2020 "絵ってなんですか?" HIGURE 17-15 cas
・2019 HIGURE 17-15 cas
・2019 Souinsha /草蔭舎
・2019 Gallery 3
・2018 Gallery Den 5
・2018 桃居/Toukyo
・2018 NANJO HOUSE
・2018 Morgenrot
・2017 桃居
・2016 MIZUNOSORA ニュートウゲイ展
The majority of people seem to believe that it is good to explore a single theme or hone a certain technique, but I think it is the opposite and that it is better to abandon techniques that have become familiar. I think it's nice to have a fresh picture that looks like it was drawn for the first time yesterday. However, when I first started, I was unconscious of the act of applying paint, but now I have become accustomed to it, almost as if it were a technique. Nevertheless I can't give up painting.
I don't like one which the technique hides the paints and makes it look like nature, nor which the technique looks like technique, but I like the paint looks like paint. Even so, I felt like I should try again the painting method that I had given up on because I was too used to it. Is this just because I can't think of anything new to try, or is it an exploration of a theme? I don't mind either, and I've been trying it recently. I haven't had any exhibitions for a past year, and my thoughts on painting may changed due to different circumstances, such as my body becoming more and more fragile and my initiation into a certain martial art.
I feel like I've always enjoyed to apply paint until I feel like it. It's strange and interesting that sometimes I have to apply a lot to feel better, and other times I feel better after about 3 seconds. I wonder what's happening on my paper or canvas. If this is the phenomenon of painting, then I want to stand vertically on the border between painting and non-painting.
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2023年の桃居での髙瀬きぼりお絵画展へのコメント
ひとつのテーマを探求したり、ある技術を磨いたりすることを良いとする価値観が多数派に見えますが、ぼくはその逆で、慣れ親しんでしまった技術は捨てた方が良いと思っているし、きのう初めて絵を描いたような、そんな新鮮な絵を良いと思ってる。とはいえ絵の具を塗るというぼくの行為は、始めた頃は無自覚に、今ではしかたなく慣れ親しみ、まるで技術であるかのようです。それでも塗ることを捨てられずにいる。技術が絵の具を隠し自然のように見えたり、逆に技術が技術として見えたりしてしまわずに、絵の具が絵の具に見える、そんな絵が好きです。それなのに、慣れすぎたためにやめた描き方を、もう一度やってみる、という気分になった。これは新しい試みが思いつかないだけなのか、それともテーマの探求なのか。ぼくはどちらでもいいのだけど最近やってみている。ここ1年間展示がなかったし、体が壊れてきたり、ある武道に入門したりなど、今までとは異なる状況の中で、絵に対する考えが変わってきたのかもしれない。
ぼくはいつも、気がすむまで楽しく塗る、ということをしてきたような気がする。たくさん塗らないと気が済まないときと、3秒くらいで気がすむ時があって不思議でおもしろい。紙やキャンバスの上で何が起きてるのだろう。それが絵という事象なのだとすれば、絵と絵じゃないものの境界線上に垂直にぼくは立ちたい。
2022年10月
/// あいさつ ///
子供の頃から絵を描くことが好きで描いているけど、そういえば美術の歴史を知らないことに気がついて最近は模写して遊ぶときについでに調べるようにしています。そうするとなんとなく美術の歴史がわずかながら見えてきたので、今回発表する抽象の模写に関係しそうな部分をぼくなりにまとめて書いてみます。
/// ざっくりと西洋美術について ///
単体の作品や作家について書く前に、西洋美術が何をしてきたのかざっと書いてみる。
ぼくは東洋人であるにもかかわらず、美術といえば西洋美術だというところですでに何か捻れのようなものがあるけれど、この感覚は時代と地域に特有のものだと思う。戦後合衆国文化の影響を強く受けた世代を親に持つことが関係してると思う。それがアメリカ合衆国の市場拡大政策だったと知ってもなお、自分の美術の好みはあまり変わらない。
西洋美術の現存するなかでの最古の出発点を、氷河期の洞窟壁画だとする人たちと、氷期洞窟壁画は現代の美術に繋がってはいないとして、はじまりを古代エジプトとする人たちに大きく分かれる。この二つには大きな溝があるけどあまり議論になっていない。おそらく信仰心に関わる繊細な理由からだと思う。ぼくは氷河期の壁画が始まりでいい。
最初はおそらく地面についた足跡とか何かを引きずった跡などが「おもしろい」ということを発見したところから始まった。役にたったというよりは、おもしろかったのだと思う。貴重なエネルギー資源を増やす役にたつ発見は、道具や装置として発展したが、おもしろかったものはむしろ貴重なエネルギーを消費するものだった。でも人々はそれをやめなかった。なんでだろう。役立つ道具や装置を作る段階では資源を消費するけれど、それを作った後は効率よく資源を増やすことができて、消費した分より多く回収できた。おもしろいものも資源を消費するけれど、それより多く回収できるのかもしれない。その過程が見えにくいだけで。
こうして氷河期を何回か乗り越えながら、自分や誰かが「自然」に対して与えた痕跡をおもしろがることが続いていった。そして洞窟の外の世界を洞窟の壁に写す絵を描くようになった。それから氷がとけて我々は地上に広がり農耕し、資源を備蓄し、持つ者と持たない者に分かれ、社会を形成した。
プラトンはイデアという概念を使って芸術の価値を低く置いた。感覚できるこの世界、つまり自然は、完全性の象徴のようなイデアの写しであって、つまりイデアの似姿でしかない、という概念だ。イデアの写しであるこの世界の中で、ヒトがさらに「自然」を写すという2段階劣化したものが芸術ということだった。さらに、芸術家は魚釣りを描くが魚釣りの技術を持っていないとして価値を低く置いた。その後、思想家や芸術家たちがこのプラトンによる芸術批判を乗り越えようと、いろんなことを考えた。
ある思想家は、自然を写す技術は魚釣りの技術と同じく技術として価値のあるものだと考えた。
他の思想家は、自然の写しやその技術よりも、理想的な形つまり芸術家の頭の中にある考えそのものの方が価値があると考えた。
そうこうするうちにキリスト教が世界(ヨーロッパ)に広まりひとつの神がこの世界を作ったと信じた時代になった。そして自然には神が設定した目的がありその目的に適っている感じ(自然の合目的性)を以って、自然は神の現れであるとし、それは人工物にもあてはまる、ゆえに芸術は神の現れであるとし価値を取り戻した。
キリスト教に縛られた表現を乗り越えようとした人たちは古代ギリシアの思想を参照し融合した。つまり芸術は、「自然の目的」としての「完全性」を重視し、それは統一秩序やシンメトリーのような形で芸術に表れた。
ここまではすべて「理性」によるプラトン否定だったし、芸術の仕事は美しい自然の模倣だった。
ところが18世紀にカントという思想家が「理性」を疑った。しかも理性を使って理性を疑った。ここから芸術を使って芸術を疑う長い歴史が始まった。これはカント的自己批判と呼ばれるのだが、「批判」というと日常会話では〈否定〉とか〈言論による攻撃〉のような意味で使われるけど、ドイツ語でKritik、英語だとCritiqueの訳だと知れば批評とか反省のような、攻撃性の小さい意味でも理解できる。
「絵を使って絵を尋ねる」ために、ある画家たちは写すことをやめようとしたが、形からは逃れられなかった。自然を模倣せずに四角や五角を描いても描く対象があることに変わりはなかったということだ。
他の芸術家たちは何を描くでもなく道具を手に取り無意識下で動かすことによって、ヒトによる「制作物」を超えて「自然」そのものであろうとした。
それから、絵画以外のメディアにできることを絵画から排除しようという動きがおきた。彼らは「平面性」と「絵の具そのもの」を、絵画だけが持つ特徴だと気がつきそれ以外の要素が入らないよう注意深く排除していった。当時の作品を今みると、まだ奥行き感、今で言うレイヤー感、図と地の関係などが拭いきれていないものがあるけれど、当時それは絵画のモダニズム的行き止まりに見えて、絵画は死んだように見えた。そこから後ずさりするように表象性を取り戻した一派がポップアートだとすれば、芸術以外の方法を絵に持ち込み、新しい美を作ろうとすることや、まだ行き止まりじゃないとして自己批判という重箱の隅でいろいろやる派、などが次々と発生した。200年後どれかの影響は残っているだろか。
これら以降の美術がぼくにはよくわからない。イズムの消滅と共にぼくの理解を超えてしまっているのかもしれない。だけど最近知ったのだが、これらの欧米メインストリームとは別の、世界各地の現代美術に目を向けてみると、逞しくて面白い物がまだまだたくさんありそうだ。最近知り合ったメキシコ人や、京都の芸術家たちと接して感動しました。ぼくが知らないだけで、きっとたくさんおもしろい美術があって、しばらく終わらなさそうにみえる。
紙粘土、アクリル、ガッシュ
150 x 83 mm
/// つづく ///
一次元絵画、ある単位、その他の断片
2022年6月 高瀬きぼりお
一次元絵画という語を聞いたことありますか?ぼくは無かったです。自分で思いつきました。「絵を描いています」と自己紹介したときに、「平面ですか」と言われ答えにつまったことが気になって、平面について少し考えました。平面は厳密にはこの世界には実在しなくて、観念の中にだけ存在しうるものです。これは直線も同じ。ぴんと貼った布に描いた絵が平面と呼ばれる世界では、ぴんと貼った糸に描いた絵は、線と呼ばれるはずです。線上の絵を壁につけて展示するときにいくつかの問題が起きました。それらを解決する方法がいくつか思いついて、そのうちのいくつかをやってみて、そのうちのいくつかを展示しています。
平面問題については最近やっと理解しました。絵はかならずしも平べったいものに描かれるわけじゃなくて、器など湾曲した面にも描かれます。そういう前提があれば、「絵を描いています」、「平面ですか?」は成立します。その後は「焼き物です」とか「キャンバスに」というやりとりが続けられそうです。でもぼくの作品はキャンバスの平面性や支持体の構造を疑ってみたりして作っているので、はい/いいえ で回答するための質問の仕方には選択肢がないです。こういった前提となる知識のことを文脈とかコンテクストと言います。現代美術がハイコンテクストだという批判があるけれど、日本の文化も相当にハイコンテクストだと言えそうです。ただその文脈が違うだけで、多くの情報を要求するところが同じに見えます。
以前の言語学が言語を定義できていないということで、ソシュールは言語ってなんですかと分析、定義しようとした。ぼくがもしこの世界で平面ってなんですかと問うならば、それを分析するところから始めたい。ぼくにとっての平面はキャンバスだ。キャンバスってなんですか。麻を平織りした布です。平織りってなんですか。二本の糸を十字に重ねたら平織りですか。ちょっと足りない感じがします。まだ平面になっていません。縦糸を一本ふやしたらどうだろう。横糸をもう一本ふやしたならどうだろう。このあたりが平面の始まりのようです。こういったことはコンテクストを共有している人にとって、作品を見ればわかることのようです。しかしそうでない人の、作品の見方を制限してしまうようで心苦しいけれど、これを読んでもなお自由に作品を解釈できると、読む人を信用してここに書いてみました。
こういった疑問から始まった絵も作りますが、とにかく絵の具を塗ることが楽しいです。
今から20万年前、ぼくらはアフリカで誕生し、他の人類と交配したり駆逐したりしながら地表に拡散していった。その過程で氷期を二度経験し洞窟で時間を過ごした。その際、洞窟の壁に絵を描いたものだが、それらは運べなかった。移動することになった時、移動できる美術が必要になった。厳しい自然と対峙しながらマンモスを追う時にも美術は必需品だった。壁画はそれが存在するその場所で制作されたものだが、移動可能な制作物はどこで作られどこに運ばれたか、という移動に関する貴重な情報源だ。現代で言えば、壁画なのかそれとも、キャンバスや紙やweb上に描かれ移動可能なものなのか、複製可能なのか、経年劣化はどの程度なのか、現時点で貴重な素材を使うのかそれともありふれた材料を使うのか等、メディアを選択する時点ですでに、作家の態度があらわれている。自己顕示と芸術が混同されがちな現代では、このことは忘れられることが多い。
ところでぼくは、なんで絵を描いているのだろう。絵の具を塗りたいから?
なんで塗りたいのだろう。楽しいから?
難しいことを考えてるふりをすることもあるけど「楽しいから塗ってる」というのがしっくりくる。なんで楽しいのだろう。絵の具をキャンバスに付けただけなのに「絵の具とキャンバス」とは違う「絵」というものになったり、ならなかったりすることが楽しい。なんでそれが楽しいのだろう。語の指し示す範囲の境界に触れるからだ。たとえばセルリアンブルーをキャンバスに塗り、それを「青」と呼んでみる。これはいったい何が起きているのだろう。矩形の木枠に貼られた布に、流動性のある有色の物体が付けられ、その後乾燥固着し、室内の垂直の白い壁に掛けられるのだが、これはいったい何か。ぼくが呼ぶとおり、これは「青」なのか。それとも「絵」なのか。「青」ならば「絵」なのか。
ぼくがキャンバスを塗ると、「絵」という語が指し示す範囲内のものになったりならなかったりする、そのこと自体が不思議でおもしろい。きぼりおは絵にしたいのか絵じゃなくしたいのか、と問われたことがあるが、この問いは前提が間違っている。ぼくの作品群にはメッセージ性がないが、しかし「絵」という語を尋ねようとしている、と言えるだろうか。
あるいは、これらは「美術」だろうか、と問うてみる。
キャンバスや絵の具など制作の材料のことから考えてみる。生産量が減ったとはいえ、これらは今も普通に流通しているものだ。工業製品とか商品という側面も持つ。そういうものをぼくはただ組み合わせているにすぎない。美術に創造性を求めるなら、ぼくが作った「青」は美術じゃない。iphoneとアサヒスーパードライを組み合わせても(ここにも創造性が入り込む隙があるので要素として取り出しきれていないが、それでも)美術とすることができると認めるならば、ぼくの「青」も美術である可能性がある。きぼりおは美術をしたいのか、美術じゃないことをしたいのか、という問いには、ご存知の通りどちらでもいい、と答えたい。美術という語を定義してくれたら、どちらかをえらべるかもしれない。
店で売ってるありふれた工業製品を、メーカーの想定した通りに組み合わせて、ギャラリーと呼ばれる室内の白い垂直の壁に置いた時、ひとはそれを美術作品とみなすことになる。だけどよく考えると、作品に隣接する白い壁もまた、誰かが塗ったものなのだ。ぼくの「青」との違いは、移動可能かどうか、という所にしかない。「青」は白でもよかったのだから。
平面上の、黒く塗りつぶした正六角形が立方体に見えることから、視覚の信頼性の低さは分かるし、それはよく知られているけれど、美術は壁よりも価値が高いという設定もまた、尋ねてみる必要がありそうだ。
そう考えると画家という語が指し示すところの人物たちや、ぼくがしていることは、以下のように言い換えることができる。
工業製品を組み合わせたものを、室内の白い垂直の壁に付け美術にみえるようにすることによって価値を高め、数値化された経済力との交換をしようとしている、と。
ここでiphoneとスーパードライの組み合わせにも創造性が入り込む余地があったことを思い出そう。この二つの組み合わせはメーカーが想定していないので、主体の独創性が感じられる。だけど絵の具とキャンバスはメーカーが想定したとおりの組み合わせだ。プラモデルみたいなものだ。もっと言えば、iphoneとiphoneケースみたいなものだ。どのiphoneにどのiphoneケースを組み合わせるか、という選択には創造性を感じない。キャンバスに絵の具を塗る事も、そういうことなのか、それとも違いがあるのだろうか。
違いがあるとしたら、手作りかどうか、という違いがありそうだけど、実はそれもちがう。iphoneにケースを付けるのは手でやったのだから、キャンバスに絵の具を手で付けるのと同じことなのだ。違いがみつからない。ぼくのつくったものは本当にそういうことなのだろうか。違うなにかが起きてそうな気がする。もしかしたらiphoneに専用ケースを手で付けることに創造性が隠れているのかもしれない。あるいは美術と創造性は、もはや無関係なのかもしれない。
知りたいことがたくさんあります。
2021年3月
ぼくの作品について少し、書いてみます。
便宜上、「絵を描いています」と自己紹介するけれど、絵のことを知れば知る程、ぼくがやってきた事は絵じゃなかった可能性が高くなってきました。こういう話しをすると、言葉にとらわれるのはよくない、と思う人もいるかもしれない。だけど、例えばぼくが塗った或る色が何という名前で呼ばれても、ぼくの塗ったその色が変るわけではないんだけど、その色の呼び方がぼくとは違う人もいる、ということです。このことは誤解じゃなくて、言語の時制の問題と似ているような気がしてきました。
つまりぼくがやっていることを正確に言おうとすると、矩形のキャンバスに筆で絵の具を塗ってる、となります。英語で言うとpaintingとなって簡単でいいですね。
絵を見る時、ぼくはまずストロークが目につくことが多い。いろんな種類のストロークがあって、ぼくの好きなのと嫌いなの、中間はほぼ無限にある。それからキャンバスの側面。そこをどう処理するのか、あるいはしないのか。絵の窓問題に対する態度が表明されているように見えて楽しい。北アメリカのモダニズム絵画が窓性を批判的に明らかにしたとき、壁と絵に境界を付けなくなる。それから、マッタクラークが壁に矩形の穴をあける。しかし発表当時、それを絵の窓性と結びつけて何か言っただろうか。先に聞いてしまうと、答えを知ってるパズルをみせられるような気分。
ぼくがもっとも興味があるのは、作品を作ってるときに、これで完成、という瞬間がくるんだけど、自分でそれを決めているのになぜそう決めたのか本当はわからない事と、これはうまく言えてないんだけど、このうまく言えなさそれ自体です。
絵をずっとまえから描いてるけど、美術と出会ったのは最近のことです。以前はよくわからなかった初期ルネサンスも、おもしろくなりました。当時フィレンツェのブルネッレスキという建築家が透視図法を発明するのですが、彼の影響下の画家たちは始めの頃こそ正確な透視図法を使っていたけれど、すぐにそこからずらしていきます。オランダに透視図法が伝わる頃にはイタリアでは透視図法は主にずらすために使われているように見えます。たぶん重要性が他にあるのでしょう。ところで、ここでいうルネサンスとは古典ギリシア文化を復興しようという意味なので、美術の主題はキリスト教聖書ではなくギリシャ神話になっています。そういう意味ではルネサンスのきっかけになったようなジョット作品において、内容はキリスト教聖書を引用しているけど、技法は古典を参照してるのがよくわかります。こんな感じで氷河期から現在まで文化が時代や地域を超えて影響していておもしろくおもいます。
矩形のキャンバスに筆で絵の具を塗ったものを垂直の壁に展示しています。
矩形というのは、四角の中でも全ての角が90度のものを言います。キャンバスというのは、枠に布をぴんと張って辺を固定したものです。筆というのは、動物の毛や合成繊維を束ねて持つところを付けたものです。日本語だと刷毛と筆を区別しますけど、ぼくはあんまり区別がありません。絵の具というのは顔料と接着剤を混ぜたものです。塗るというのは、流動性のあるものを流動性のないものに付けることです。垂直というのは地球において、重力の向きに対して0度あるいは180度の事だと思っていたけど、それは鉛直というそうです。間違えました。展示というのは、作品などを並べて多くの人に見せることです。
自覚できることはこの程度のことですが、特に塗るところが気になっています。そしてその時に何が起きているのかを知りたい。