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このページでは髙瀬の展示やイベント等によせられた髙瀬きぼりお本人による文章を掲載しています。
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【絵ってなんですか?】

今から20万年前、ぼくらはアフリカで誕生し、他の人類と交配したり駆逐したりしながら地表に拡散していった。その過程で氷期を二度経験し洞窟で時間を過ごした。その際、洞窟の壁に絵を描いたものだが、それらは運べなかった。移動することになった時、移動できる美術が必要になった。厳しい自然と対峙しながらマンモスを追う時にも美術は必需品だった。壁画はそれが存在するその場所で制作されたものだが、移動可能な制作物はどこで作られどこに運ばれたか、という移動に関する貴重な情報源だ。現代で言えば、壁画なのかそれとも、キャンバスや紙やweb上に描かれ移動可能なものなのか、複製可能なのか、経年劣化はどの程度なのか、現時点で貴重な素材を使うのかそれともありふれた材料を使うのか等、メディアを選択する時点ですでに、作家の態度があらわれている。自己顕示と芸術が混同されがちな現代では、このことは忘れられることが多い。

ところでぼくは、なんで絵を描いているのだろう。絵の具を塗りたいから?
なんで塗りたいのだろう。楽しいから?
難しいことを考えてるふりをすることもあるけど「楽しいから塗ってる」というのがしっくりくる。なんで楽しいのだろう。絵の具をキャンバスに付けただけなのに「絵の具とキャンバス」とは違う「絵」というものになったり、ならなかったりすることが楽しい。なんでそれが楽しいのだろう。語の指し示す範囲の境界に触れるからだ。たとえばセルリアンブルーをキャンバスに塗り、それを「青」と呼んでみる。これはいったい何が起きているのだろう。矩形の木枠に貼られた布に、流動性のある有色の物体が付けられ、その後乾燥固着し、室内の垂直の白い壁に掛けられるのだが、これはいったい何か。ぼくが呼ぶとおり、これは「青」なのか。それとも「絵」なのか。「青」ならば「絵」なのか。

ぼくがキャンバスを塗ると、「絵」という語が指し示す範囲内のものになったりならなかったりする、そのこと自体が不思議でおもしろい。きぼりおは絵にしたいのか絵じゃなくしたいのか、と問われたことがあるが、この問いは前提が間違っている。ぼくの作品群にはメッセージ性がないが、しかし「絵」という語を尋ねようとしている、と言えるだろうか。

あるいは、これらは「美術」だろうか、と問うてみる。
キャンバスや絵の具など制作の材料のことから考えてみる。生産量が減ったとはいえ、これらは今も普通に流通しているものだ。工業製品とか商品という側面も持つ。そういうものをぼくはただ組み合わせているにすぎない。美術に創造性を求めるなら、ぼくが作った「青」は美術じゃない。iphoneとアサヒスーパードライを組み合わせても(ここにも創造性が入り込む隙があるので要素として取り出しきれていないが、それでも)美術とすることができると認めるならば、ぼくの「青」も美術である可能性がある。きぼりおは美術をしたいのか、美術じゃないことをしたいのか、という問いには、ご存知の通りどちらでもいい、と答えたい。美術という語を定義してくれたら、どちらかをえらべるかもしれない。

店で売ってるありふれた工業製品を、メーカーの想定した通りに組み合わせて、ギャラリーと呼ばれる室内の白い垂直の壁に置いた時、ひとはそれを美術作品とみなすことになる。だけどよく考えると、作品に隣接する白い壁もまた、誰かが塗ったものなのだ。ぼくの「青」との違いは、移動可能かどうか、という所にしかない。「青」は白でもよかったのだから。

平面上の、黒く塗りつぶした正六角形が立方体に見えることから、視覚の信頼性の低さは分かるし、それはよく知られているけれど、美術は壁よりも価値が高いという設定もまた、尋ねてみる必要がありそうだ。

そう考えると画家という語が指し示すところの人物たちや、ぼくがしていることは、以下のように言い換えることができる。
工業製品を組み合わせたものを、室内の白い垂直の壁に付け美術にみえるようにすることによって価値を高め、数値化された経済力との交換をしようとしている、と。

ここでiphoneとスーパードライの組み合わせにも創造性が入り込む余地があったことを思い出そう。この二つの組み合わせはメーカーが想定していないので、主体の独創性が感じられる。だけど絵の具とキャンバスはメーカーが想定したとおりの組み合わせだ。プラモデルみたいなものだ。もっと言えば、iphoneとiphoneケースみたいなものだ。どのiphoneにどのiphoneケースを組み合わせるか、という選択には創造性を感じない。キャンバスに絵の具を塗る事も、そういうことなのか、それとも違いがあるのだろうか。

違いがあるとしたら、手作りかどうか、という違いがありそうだけど、実はそれもちがう。iphoneにケースを付けるのは手でやったのだから、キャンバスに絵の具を手で付けるのと同じことなのだ。違いがみつからない。ぼくのつくったものは本当にそういうことなのだろうか。違うなにかが起きてそうな気がする。もしかしたらiphoneに専用ケースを手で付けることに創造性が隠れているのかもしれない。あるいは美術と創造性は、もはや無関係なのかもしれない。
知りたいことがたくさんあります。

2021年3月